記録

1994 東京 一人暮らし

ご機嫌と不機嫌

二十歳を過ぎてから強く思うこと。

自分には波があってご機嫌と不機嫌の間をゆらゆらと不規則な曲線を描いて彷徨っている。

 

何度かそれの波を経験し、これは仕方ないことなのだな、と思ってはいたけれど「いや違う。このままじゃ人生においての幸せと不幸せの比率を死に際に後悔する」

と思った。(セコい性格が垣間見えてしまうのがお恥ずかしい話だ。)

 

なので、最近はできるだけご機嫌で幸せな時間を伸ばすことを意識し始めた。

 

大切なのは、どれだけご機嫌な自分をキープできるかだ。具体的にどうすれば良いかなんて、人それぞれなのだが、意識すると不思議とご機嫌な期間が長くなってくる。

 

例えばわたしは、不機嫌の波が終わると心がぱーっと明るくなり、深呼吸をしたくなる。新しいことを始めたり、ご機嫌になるとやること(自分を磨く、部屋を片付ける、丁寧な暮らしをしようとする)をし始める。そして終始ご機嫌。今が楽しくなる。

 

ご機嫌なら余裕も生まれるので、この手間は割と容易く出来るはずだ。手間というのは、意識することと、実践することの二つだ。そこから思わぬ拍車がかかる時もある。チャンスがたくさんきらめいている時間を送れる。

こんな風にわけのわからない小論文口調のブログも投稿してしまう。

 

不機嫌な時の話だが、ストレスがかかると嫌なことをたくさん考えてしまう。それは自然なことだし、ずーっとご機嫌なんて、ロボットじゃあるまいし。不機嫌な態度をとることで、少しでもストレスを排出できているかもしれないので、良しとする。それにわたしは根暗でネガティヴなので、これはわたしが生きるためのルーティンなのだと思って無理はしていない。

 

自ら不機嫌から這い上がろうとするのは苦しい。じっと、またはぐったりとしながらご機嫌の波が来るのを辛抱強く待つ。そしてご機嫌の波に乗れたときは、自分は今ご機嫌だということを感じて過ごす。最初は具体的に何かするわけでもなく、意識することが大切だ。自然とモチベーションが上がり、気づけば部屋が整い、身なりも整い、仕事も楽しめるし、体力だって余裕ができる。気がする。

 

なんだか理にかなわない、不思議な話だ。でもそうなんだ、誰かにこれを伝えたくて。

 

ちょっとだけ自分のご機嫌を取って、運命をいじってみてはどうだろうか。